Par chance
今日もいい1日になりますように
先日フランスで、リヒャルト・シュトラウスのチェロソナタを弾く機会がありました。合わせの時、ある箇所がどうしても、気持ち的に楽ではなかったので、チェリストに話して、何回か弾いてみましたが、どうもしっくりきませんでした。ここでは彼女ではなく、自分が何かを変えるべきだと感じました。
この時は、それ以上は触らないでおき、次に合わせる時には、アプローチを変えることにしました。敢えてその箇所をひとりでさらったりはせず、「思う仕方」を変えることにしたのです。 結果はうまくいきました。「何を変えたの?」ときかれました。その答えは、「思うことの中身を変えただけ」です。うまく合わせようとしたり、これくらいのタイミングでいこうと決めたりする代わりに、自分のトータルコーディネーションが整っているようにしたのです。自分のコーディネーションを整えるのに何を思うのが有効かは、人によって、あるいは時と場合によって違うでしょうが、それを知っておくことは、とても大切です。もちろん、思うことの中身を変えればすべてうまくいくわけではありませんが、そういうケースも多いものです。 問題のパッセージに入る直前に、コーディネーションを整え直すことができると、身体と心が、自然にあるべき方へと導いてくれるとでも言ったらいいのでしょうか、音楽の流れ、自分の内側の流れを然るべく保ったまま、弾き続けることができます。難所というのは、ともすると、意識の持っていき方(思う仕方)が難しくなりがちで、その結果、自分の内側、外側ともに自然な流れが失われてしまうのですね。 「思うこと」。誤解を招きがちな言葉ですが、アレクサンダーで学ぶのは、まさにこのことです。アレクサンダーに関するよくある誤解は、正しい姿勢や身体の動かし方、解剖学的なことを学ぶエクササイズのようなメソッド、というものです。確かに、身体の状態は変わるでしょうが、それは思うことを変えることによって起こっているのです。 このブログで扱っていることは一見、アレクサンダーらしからぬように思われる方もいらっしゃるかもしれません。まだ何回かですが、今まで扱ってきたことはすべて、気づきにまつわることです。何かに気づくことによって思うことが変わり、よってコーディネーションが変わる、つまり在り方が変わるということについて綴っています。アレクサンダーのレッスンでしていることとは、気づきを促す役目を果たす教師の手によって、新たに生じたコーディネーションのより整った状態を、徐々に自分でもつくり出せるよう学ぶことなのです。 近所に美味しいお豆腐やさんがあり、帰国して以来、ここのお豆腐を食卓にのせるのが、密かな楽しみとなっています。
売られているものが美味しいだけでなく、お店の人たちがテキパキと働いていらして本当に感じがよく、買い物をする度に、「私もがんばろうっと♪」という気持ちになるのも素晴らしいところ。いちいち口には出さなくても、人は支え合って生きているんだなあと気づく瞬間です。お豆腐やさんでのほんのちょっとの時間は、私にとってはアレクサンダーのワークと同じカテゴリーに入るものなのかもしれません。 先日、パリ行きの飛行機の中であった思わぬ再会がとても印象的だったので、書いておきたいと思います。
機内に入り口で、スチュワーデスが座席の案内をしてくれていました。『この人、あの時のあの人じゃない?えっと名前は…そうそう、〇〇さんだ!』私の横に立って、前の人の座席を案内している彼女のことを、数秒は見つめていたと思います。確信があったわけではなかったのですが、「すみません、もしかして〇〇さんでいらっしゃいますか」と声をかけました。「そうです」との答え。彼女は随分前、パリのアパートで隣に住んでいた人でした。「あの、私、昔、△△通りのアパートで隣に住んでた日本人の…。」見ればわかるよ、と自分にツッコミをいれながら言うと、一拍おいて次の瞬間、「ああ〜‼︎」と手を握り合っていました。当時、この航空会社のスチュワーデスをされていることはきいていましたが、日本人のよしみで一度、うちで一緒にコーヒーを飲んだくらいで、そこまで親しくお付き合いをしたわけではありませんでした。何度かしか、お見かけしたこともなく、彼女たちが引っ越して行った後は、そのまま連絡先も知らずにいたのです。 このフライトの間、彼女は私の座っていたセクションの担当ではなかったにもかかわらず、何度か来てくれ、お陰で少し、思い出話をすることができました。15年来のまさかの再会を彼女もとても喜んでくれて、本当に嬉しかったです。どうして、彼女のことをフルネームで思い出せたのかは不思議ですが、この再会のお陰で、普段はどちらかというと苦痛なフライトが、幸せな時間になりました。パリに着く直前、機内アナウンスが入り、彼女の声でした。「またどこかでお目にかかれますのを心より楽しみにしております。」聞き慣れたフレーズを、彼女が心を込めて言ってくれているような気がしました。 今回も敢えて、連絡先の交換はしませんでした。私はそれを好ましく感じました。また会えるような気がしているし、もしかしたらそうでないかもしれないけれど、だからこそ一層、再会を堪能できたのだと思います。 好きで時折、観に行きたくなる絵があります。パリのオランジュリー美術館にあるクロード・モネの一連の睡蓮の絵です。横に長〜い絵が8枚、真ん中にベンチがある楕円形の2つの展示室に渡って飾られています。
この美術館に通いつめるようになったのは、アレクサンダーの教師養成の最中でした。最初は「普通の」鑑賞として出かけたのですが、それ以後、この絵と心ゆくまで向き合うことが、至福の時間となっていきました。 この絵と対面している時は決まって、自分を定点観測しているような感覚を覚えます。毎回、異なる鑑賞体験を与えてくれるこの絵の懐の深さに心打たれるとともに、自分の変化を実感したものでした。その都度、自分の心を映す鏡のようで、面白く思ったものです。当たり前といえば当たり前ですが。 「ものの見方は、その人そのもの」というのが今日のテーマです。どんな自分で、どんな心持ちで、どんな眼差しで、もの(世界)を見るか。自分が見ているものは、自分を表しているのだな、と気づくきっかけになった出来事でした。 音楽家にとっては、日々の練習で自分と向き合う時間はまさに、こうした体験ですよね。 先日、少し久しぶりに再び、この絵と対面できました。改めて、今の自分をはっきりと知る時間となりました。 ピアニストの舘野泉さんの『絶望している暇はない −「左手のピアニスト」の超前向き思考−』という本の中に、「存在自体の強さ」という言葉が出てきて、とても印象に残りました。舘野さんは、その人が音楽している時の存在自体の強さが大切なんじゃないかと思う、とおっしゃっているのです。私は、この言葉に深い共感を覚えました。
音楽は、聴き手に何かを伝えるものです。その伝達の質を決定づけているのは、演奏している人の在り方の質だと私は思っています。それは、悲しみを表現する時には悲しそうな顔をするといった、そこまで単純なものではなくて、演奏者から滲み出て伝わってくるもの。オーラが出ていると言ったらいいのでしょうか。 私たちは、存在しているだけですでに、何らかのメッセージを発しているものです。例えば内心、怒っていれば、口に出さなくてもそうした雰囲気を醸し出してしまいますよね。雰囲気や印象、オーラなどと表現されるそれらから、私たちは互いに何かを感じ取ったり、心を動かされたりしています。 そうした質が、演奏時に適切な状態であること。これは、演奏者にとって最も大切なことではないでしょうか。そこからすべてが生まれるのですから。 以前、読んだ本の中で、グウィニス・チェンが「演奏表現で最も大切なのは、気を掌握することだ」といった趣旨のことを言っていましたが、これもまさに同じことを異なった言い方で表現しているのだと思います。 アレクサンダー・テクニークは、こうしたことについて何ができるのか。 「方向性」を使うことに熟達するにしたがって、このようなことが実感できるようになっていくでしょう。拙訳した本の著者も言っていますが、アレクサンダー・テクニークは、伝達にまつわることを扱っているのです。 フランス語には、「四角いジャガイモ」という表現があることを、数日前に知りました。
フランス人の友人宅で、一緒に料理をしていた時のこと。私が包丁で剥いたジャガイモの皮を見た友人が、「あーらら、四角いジャガイモにしちゃったわねー」とひとこと。分厚く皮を剥くことをこのように表現するのだとか。もちろん、私の剥いたジャガイモは丸いままで、四角い石鹸のようになったわけではありません。 いい意味でとてもケチというかエコなフランス的生活に倣って、野菜もできるだけ無駄なく使おうと心がけているし、何しろ慣れきったことだから、私の当たり前をやっただけ。盲点を突かれた感じでした。確かに、彼女のようにピーラー(皮むき器)で剥く方が、薄く無駄なく剥ける!ふうん、知らなかった。 自分が「正しい」と信じてやっていることのなかにも、そうでないかもしれないことがあるかもしれないことを、改めて思った瞬間でした。正しいこと、当たり前を疑ってみる。これが自らできるような柔軟性を日々、持っていたいです。ビギナーズ・マインドですね。 |